戦艦大和。誰もが知るこの戦艦がつくられた広島県呉市は、今を生きる人々が想像できるはずのないほどの苦しみ、悲しみが課せられた町でもありました。「この世界の片隅に」の舞台となった呉。歴史ヒストリアで紹介されたエピソードをもとに紹介します。
呉が選ばれた理由
その当時、近代海軍になくてはならないものがありました。それが、港、工場、訓練の3つの機能をもった機関・鎮守府です。
明治維新を迎え、明治政府は欧米列強に対抗できる海軍をもつことを急務とし、鎮守府を建設することとなりました。東には横須賀を、西には長崎を候補地に挙げますが、海軍省主船局長・赤松則良が異を唱えます。理由は「長崎は鎮守府に適していない。大海に面し、欧米列強から攻撃されやすい」と強く反対します。
赤松は「瀬戸内沿岸であれば、紀伊水道・豊後水道・関門海峡で守ることができる上、瀬戸内の3000もの島があり、敵を封じ込めることができる」と答え、調査を開始。その結果、選ばれたのが呉だったのです。
明治23年4月 呉鎮守府開府
明治時代に建てられた「呉鎮守府庁舎」は現在も残っており、「呉地方総監部第1庁舎」として使われています。この建物と「造船廠」が建設され、通報艦「宮古」はじめ、さまざまな艦隊がつくられるようになりました。その当時の職人の数は5000人。大工場へと発展していったのです。
世界最大の戦艦大和
広島県呉市には、世界最大の戦艦と言われた「戦艦大和」がつくられたドッグが現存しています。戦艦大和を造船するよう命じられたのは、海軍きっての天才技術者と呼ばれた「西島亮二」。彼なくしては、戦艦大和は誕生していないと言っても過言ではありません。
異端児・西島亮二とは
ドイツ・ベルリンでオリンピックが開催されたのは昭和11年。そのころ、西島亮二は、ドイツ・ベルリンの地におり、「美の祭典」と称された棒高跳びの西田・大江両選手を応援しに、日の丸の旗をもち、会場へと訪れておりました。
三井の駐在員が「西島さんはなぜ、ドイツへ?」と聞いたところ、「ドイツの技術を見に来たんです」と答えます。この西島さんこそ、あの戦艦大和をつくり、日本造船界に大きな偉業を残す異端児・西島亮二だったのです。
海軍造船少佐・西島亮二が用いたブロック工法とは
ドイツで造船の技術を学んだ造船のエキスパート西島亮二に、世界最大の戦艦を造るよう命令が下ります。与えられた期間は4年10ヶ月。3万枚にも及ぶ設計図を4年10ヶ月で仕上げなければなりません。
そこで、西島亮二は、まず作業場を戦艦大和の作業場へとつくり変えました。造船工程をスムーズに進めるためには、作業しやすい並びにすることだと考えたのです。
また、西島は、一番下の工程から行う従来の工法を選ばず、造船の作業をいくつかに分けて同時に作業を行うブロック工法を用いました。これで、工期を短くすることに成功します。
戦艦大和・三等兵「廣 一志」さん談話
廣 一志さんは現在95歳。戦艦大和の三等兵として、初めて大和を見た時は「ビルみたいに大きい。スケールが違う」と驚嘆されたそう。
「♪遠すめろぎの畏くも肇めたまいし大大和」
信号兵を担っていた廣 一志さん。戦艦大和は前へと進んでいたはずなのに、なぜか、後退。その後も、大和はもっている能力を十分に発揮しないまま、終わります。
ミッドウェー開戦によって戦況が変わり、人間魚雷「回天」が登場。アメリカの攻撃が今まで以上に強いものとなったため、それに応戦できる「回天」が主になり、戦艦大和は役目を終えたのでした。
まとめ
戦争は二度と起きてほしくない。誰もがそう願っています。
次回は「マジメな織田信長」です。放送時間は、2019年4月から、毎週水曜日夜10:30~となります。お楽しみに。
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